うっかり同居

横浜市内にある夫の実家に、義父、独身の義姉、元教員の義祖父母と住んで、3年でギブアップした過去があります。

ただの “古い家” としか思っていなかった夫の実家には、裏山や田畑が付いていたことを後で知りました。

男女雇用機会均等法が施行されたばかりで、女子総合職のはしりとしてやっと入れた会社に勤めていたわたしは、結婚後も当然働き続けるつもりでした。

ところが妊娠がわかると夫の実家が同居を猛プッシュ。2階を改装してキッチンもつけてくれ、お風呂はジェットバスにしてくれました。

産休明けの同期社員に対する社内の風当たりの強さを見て、制度ができても運用する側の意識改革にはまだ時間がかかりそうだと感じていたところでした。妊娠初期に体調をくずして弱気になっていたこともあり、仕事を辞めて同居することに。

宴会に嫁の席はない

まあそこからは、これが平成の横浜かあ~~?ということの連続です。わたしの父はサラリーマンで次男でしたから、わたしも母も同居を甘くみていたのかもしれません。

うちでホームパーティーなどをするときには母も一緒に食卓について楽しんでいましたが、ここでは人寄せの宴に嫁の席はありません。二間続きの座敷の襖を取り払い、卓と座布団をずらっと並べて宴会場にします。

お料理は仕出し屋さんに頼みますが、吸い物はあたためなおして給仕、海老フライ100尾は衣がついた状態で運ばれたものを自分で揚げます。酒屋さんにビールはあと何ケース持ってきましょうかと聞かれても見当もつかない。

職場では段取りよくテキパキと働いていたはずなのに、そこではまったく勝手がわからず、自分が役立たずのバカになった気がします。

頼りの夫は上座の方で談笑中、お酒が入ったおじいさんたちにはセクハラという言葉の概念もなく、女衆は台所でおしゃべりをしていますが、下っ端のわたしは飲み食いなしで働きっぱなし。

なにかというと隣組の女性たちが手伝いにきてくれるのですが、これがまたかえって大変。お金を払って業者さんに頼んだ方がよほどいいと思うのですが、来ちゃうんです。

おばあちゃんがお嫁に来るとき実家から連れてきたというお手伝いさんが近くの農家に嫁いでいて、よく手伝いにくるけれど、かげでちょっとわたしにいじわるするとかね。友人たちが「ベタなドラマみたいだね~」とウケてくれるような話には事欠きませんでした。

地主の二極化

そんな中で、近所もみんなそれぞれ地主なわけですが、運用派と維持派ではかなり違いがあります。

うちはとにかく何もしない現状維持派。税制上兼業農家なので家の周りで多少の野菜を作ったりしていましたが、大根がいっきに採れても、売ってるわけではないので困るんです。シーズン後半になるとすが入ったり、萎れたりして美味しくない。スーパーで買いたいけど買えない。

大根を盗むヤツがいるといっておばあちゃんが畑にフェンスを設置する。欲しい人には持っていって食べてもらえばいいのに。

使っていない土地でも人には貸したくない、売る気もない、ずうーっとそのまま。いまどきそれじゃあ相続でどんどんなくなっちゃうよと言われても信じない。

運用派の中にはうまくいっているところもあって、豪邸を建ててヨットを持ってるなんていうわかりやすいお宅もありましたが、おばあちゃんは「あそこはもとは小作だったくせに」などと言っていました。農地改革以前のことをよく話しており、「それまでは他人の土地を踏まずに駅まで行かれたのに。吉田茂め~」などというのは、地主あるあるのようですね。

一方、投資話などにのって失敗し、先祖代々の土地を取られてしまった家もあったので、そういうことを目の当たりにすると何もしないのが一番という気持ちが強くなるのでしょう。資産はあっても現金収入はありませんから、家は大きくてセントラルヒーティング設備があっても使っておらず、コタツの部屋以外はすごく寒い、というような感じでした。

働き手が3人いて、義祖父母には当時教員の恩給もありましたから、お金に困ることはなく、外から見れば恵まれていたといえるかもしれません。お手伝いさんがいて、”若奥さま” と呼ばれ、ベンツでスポーツジムに通っていても、豊かな気持ちとはいえない日々でした。

価値に気づけなかった

いま思えば、いいこともたくさんあったはずですが、当時のわたしはそれに気づけなかったのです。

跡取り娘だった義母は女性管理職として現役中に病死、婿養子の義父は義祖父母と折り合いが悪く、お嫁にいかない義姉は家の中ではいつまでも子ども扱い。自分が戻らなくてはと思う夫の気持ちもわかりました。

でも、明治生まれで、地方の豪農から嫁いできた義祖母とわたしの価値観の相違を理解しあうことはできませんでした。

町内で決め事があるとき、なぜ地主とアパートの住人が同じ1票なんだ、という。「おばあちゃん、それが民主主義ってもんですよ」といっても、わからないものはわからない。

竹やぶで掘ったタケノコを裏のかまどで茹でたり、ついたばかりの餅を丸めたり、義祖母はわたしにいろいろなことを仕込もうとしていたけれど、その頃のわたしは、そういうことの価値やありがたみが全然わかっていなくて、もっときれいなものがデパートで買えるのにと思っていました。

いまならお金を出してでも習いたいことばかりですが、当時はいっぱいいっぱいで、3年が限界でした。同じように夫も、自分が家に戻ったからには何かしら変えることができるはずだと考えていたのに、まったく耳をかそうとしない祖父母に、自分がここにいる意味はないと感じていたようです。

ここが原点

いまでは義姉が一人だけとなった実家に、先日久しぶりに戻ってみると、あまりの荒れように衝撃を受けました。

畑には背丈以上の草が生い茂り、芝生の庭は跡形もなく消滅、まるで廃墟のようでした。

人が手をかけないと、土地や家はあんな風になってしまうものかと驚きました。

義姉はそのままが好きな一族の末裔ですから、あまり驚いてはいないようでしたが。そのままでいたらこうなっただけ、これからもずっとそのまま。

それが農耕民族というものなのでしょうか。駅近のマンションの方が、きれいで便利で住みやすいんじゃないかなどとは考えないようです。

「この家は僕の代でおわりにします」と宣言して、一緒に家を出てくれた夫ですが、やはり土地に対する思いは強いようです。息子にとっても3歳まで生まれ育った場所です。

税金と維持費だけかかって、なにもないただの裏山は負の遺産のように感じたこともありますが、ずっとそのままが好きなひとたちがいたから、いまも緑地が残っているんですよね。

そうでなければ調整区域などに指定される前に、周りと同じように宅地になっていたでしょう。

 

義祖父はずっと御用聞きがくる暮らしをしていたので、教員なのに、お金を払って買い物ができないという実社会には向かないところもありましたが、書や墨絵を描いたりする風流なひとでした。

わたしが裏山をひとまわりして、ツルや枝と草花のアレンジを家の中に飾ったら、「なにもないと思っていた山でも、見る人が見るとお宝があるもんだなあ」と感心してくれたことがありました。

それが、いまのわたしの原点かもしれないと思うこともあります。

 
そういう里山の価値を見直そうという活動をしているみなさんと、見る人が見ればお宝があるかもしれない裏山で、宝探しをしたいと思っています。

一緒に探したい人、裏山に集合!

 
詳しいことはこれから話し合っていきます。

里山の活動については、
NPO よこはま里山研究所
http://nora-yokohama.org/